Update 2024.04.06 2015.03.05

利根川東遷のすべて:利根川本流は,隅田川,中川,江戸川そして今の利根川へ遷る
東京スカイツリーの建つ本所・深川地区は古代から近世まで武蔵国豊島郡である
「ブラタモリ」では東京スカイツリーの東側を流れていた古川が利根川本流であったと
古代の利根川は武蔵国と下総国の国境,古代の荒川は埼玉郡と足立郡の郡境
古代の太日川は葛飾郡の葛西と葛東の境,武蔵国全図古地図で確認できる

(2023-05全体構成の順序を見やすくしました)

利根川東遷に関わるオリジナルの図のいくつかを先にお見せします

図1【利根川東遷 精密全体地図】(1キロが16ピクセル)
利根川東遷 精密全体地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図2【利根川東遷 精密全体合成地図】(1キロが16ピクセル)
利根川東遷 精密全体合成地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図3【利根川東遷の歴史地図】(図の下の川名は大概略(2024-02追記))
利根川東遷の歴史地図
①古利根川+古隅田川  ②中川        ③江戸川        ④現利根川
【国境としての利根川】【利根川東遷の直前】 【赤堀川通水前の利根川】【利根川東遷の完成】 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図4【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】(1キロが130ピクセル)
利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

上の図は幸手市のHPにあった「利根川改修履歴図」と現在の地図を合成したものです。

オリジナルはここにあります(D/Lお薦めです)。

https://www.city.satte.lg.jp/section/kankyou-navi/02kyouyou/02mizu/02mukasi/mukasi.html

上のHPのリンクが切れていたなら次のJPGを直接ダウンロードしてください。

幸手の環境を学ぼう「利根川改修履歴図」

図5【利根川東遷 治水地形分類図】利根川東遷の開削・締切・廃川のすべてを図示してあります(2022-08追記)(1キロが32ピクセル)
利根川東遷 治水地形分類図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"


利根川東遷の目次

利根川東遷の概略歴史

利根川東遷概論 1. 国境としての利根川

利根川東遷概論 2. 中世から江戸時代間近の利根川

利根川東遷概論 3. 江戸時代の利根川(ここまで読めば9割分かります(2023-02))

4. 武蔵国全図古地図上の河川と郡境

5. 利根川東遷の年代順の詳細

6. 江戸付近の詳細

7. 浅間川・会の川の詳細

8. 国境としての古隅田川(埼玉県)の詳細

9. 国境としての古隅田川(東京都)と請地古川

10. 東京スカイツリーの建つ本所・深川地区は古代から近世まで武蔵国豊島郡である

11. 国境としての利根川と新しい国境としての葛西

12. 古代の利根川と荒川そして入間川

13. 中世利根川が葛和田から綾瀬川と合流していたとする説


利根川東遷の概略歴史(開削と締切の繰り返し:図3,図5を参照)

大化の改新で(令制)国が,大宝律令で郡が定められたとされる(Wikipedia 令制国より2023-02追記)。律令時代の武蔵国と下総国との国境は利根川であった。

① 古代,国境であった利根川は(図3の1番目),

利根川上流,合の川,渡良瀬川,栗橋西べり(南流),古利根川(葛西用水路・大落古利根川),古隅田川(埼玉県),元荒川,古利根川(中川・旧中川),古隅田川(東京都),隅田川,請地古川(昭和に埋め立て),横十軒川である(巻末参考文献:最初の5つを参照2023-02)。

栗橋;久喜市旧栗橋町(2023-02全ページ修正)

② 江戸時代間近の利根川は(図3の2番目:利根川東遷の直前),

利根川上流,会の川:浅間川,古利根川(葛西用水路・大落古利根川,中川・旧中川)である。

すぐ下の図の1000年前の川の流れとあまり違いはない。

③ 会の川の締め切り後の利根川は(図3の3番目の前:利根川東遷の始まり),(2023-03)

利根川上流,浅間川,島川(栗橋南べり),東西権現堂川,庄内古川,太日川である。

つまり,古利根川から太日川への瀬替えである。

③ 新川通開削後の利根川は(図3の3番目の少し前),

利根川上流,新川通:合の川:浅間川・栗橋西べり(北流),太日川(上流は権現堂川(五霞西べり・南べり)・庄内古川,金杉から下流は江戸川)である。

③ 江戸川上流開削後の利根川は(図3の3番目),

利根川上流,新川通:合の川:浅間川・栗橋西べり(北流),江戸川上流,江戸川下流(太日川)である。

④ 赤堀川開削後の利根川は(図3の4番目),

利根川上流,新川通:合の川:浅間川・栗橋西べり(北流),赤堀川,常陸川である。

最後に,合の川と浅間川と流頭が締め切られ,今の利根川の流れになります。

(以上,2023-01追記)

(以下,2023-02追記)

利根川;とねがわ
合の川;あいのかわ
渡良瀬川;わたらせがわ
古利根川;ふるとねがわ
葛西用水路;かさいようすいろ
大落古利根川;おおおとしふるとねがわ
古隅田川;ふるすみだがわ
元荒川;もとあらかわ
中川;なかがわ
隅田川;すみだがわ
請地古川;うけじふるかわ(「うけち」とタイプするが誤読み)(詳細は9.と10.参照)
横十軒川;よこじっけんがわ(「じゅっけん」とタイプするが誤読み)
会の川;あいのかわ
浅間川;あさまがわ
新川通;しんかわどおり
太日川;ふとゐがわ,ふとひがわ,発音はふとい
権現堂川;ごんげんどうがわ
庄内古川;しょうないふるかわ
江戸川;えどがわ
赤堀川;あかほりがわ
常陸川;ひたちがわ

図3【利根川東遷の歴史地図】(再掲:大きくしました)(2023-01修正)
利根川東遷の歴史地図 上から
【国境としての利根川】【利根川東遷の直前】 【赤堀川通水前の利根川】【利根川東遷の完成】
拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

利根川東遷を一言でにいうと(すぐ下の枠内に千年前と今の川の流れ図があります)

(千年前 → 今)(すぐ下の枠を下向きに半分くらいスライドすると2つの図が現れます)
入間川 → 荒川
荒川 → 元荒川
利根川 → 古利根川
太日川 → 江戸川
常陸川 → 利根川(枠内の図に常陸川の名はないが長井戸沼から流れ出ているものです)
(利根川東遷の詳細はオリジナルの図1から図5に描かれています)(2022-10追記)

上の図は次にリンクしてあります『川の歴史 - 江戸川河川事務所 - 国土交通省』
https://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00222.html
(2022-08追記)


利根川東遷概論

1. 国境としての利根川

(図1,図5,図3の1つ目を参照)

律令制(飛鳥・奈良時代)により,五畿七道,日本六十余州と言われる国が定められたとき,利根川は国境であった。

古代の利根川は渡良瀬川・太日川(上流は権現堂川・庄内古川,下流は江戸川)が繋がっていたらしい。

国境であった利根川は(図3の1番目)(再掲),
利根川上流,合の川,渡良瀬川,栗橋西べり(南流),古利根川(葛西用水路・大落古利根川),古隅田川(埼玉県),元荒川,古利根川(中川・旧中川),古隅田川(東京都),隅田川,請地古川(昭和に埋め立て),横十軒川である(巻末参考文献:最初の5つを参照2023-02)。

栗橋:久喜市旧栗橋町

請地古川;うけじふるかわ(「うけち」とタイプするが誤読み)(詳細は9.と10.参照)
横十軒川;よこじっけんがわ(「じゅっけん」とタイプするが誤読み)

2022-10-08放送のNHK「ブラタモリ」で次のように明言していた。隅田川本流(利根川本流)は請地古川であり東京スカイツリーの建つ押上(本所・深川地区)は武蔵国であったと

この利根川の上流側は,武蔵国,下総国,上野国,下野国の国境であったので川筋が比較的詳細に判っている(図5を参照)。

この利根川の河口付近は,舟で渡れず,徒歩で渡河した話がけっこうあるようです。それがどこなのか,決定的な証拠があります。

鎌倉時代の地図には,浅草観音のそばの葛飾郡寺島(墨田区東向島)と豊島郡牛島(墨田区向島)の間に利根川があった。江戸時代以降その跡に古隅田川と呼ばれていた請地古川があったのです。
請地古川;うけじふるかわ(「うけち」とタイプするが誤読み)(詳細は9.と10.参照)

『歴史探訪_21押上界隈の歴史あれこれ_oshinaka』
https://www.oshinaka.com/1245.html
『リンク切れならこのWebサイトよりD/L』(2022-05)
https://yamakatsusan.web.fc2.com/keiido_tonegawa/ukejifurukawa.html

請地古川については
10. 東京スカイツリーの建つ本所・深川地区は古代から近世まで武蔵国豊島郡である
の項で詳しく説明します。


国境としての利根川の川筋が明確に判る証拠(2024-02追記)

国土交通省荒川上流河川事務所『荒川と旧利根川流域「今に至る流路の記憶」』
http://w-forum.jp/2022.09.16ara-Lecture.pdf

上の文献は国土交通省荒川上流河川事務所の勉強会の資料であるが「水のフォルム」の藤原悌子氏が作成したもののようだ。この資料の中に国境としての利根川の川筋が明確に判る証拠の図がある。それを借用して表示したものが次である。

図【国境としての利根川の川筋】
国境としての利根川の川筋 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

上図は千葉県,埼玉県,東京都の神社の分布図であるが,武蔵国と下総国の神社はそれぞれ偏在している(Googleマップの検索で簡単に判る)。

下総には香取神宮の分社;香取神社が多くあるが武蔵にはほぼない。注目したいのは,古隅田川(埼玉県)の東岸・左岸にも多くあり,ここが古代では下総であった証拠となる。

武蔵では上流域は鷲宮神社本社の分社が多くあり,中流域は玉敷神社の分社が多くあり,下流域では大宮氷川神社の分社が多くある。これらは下総にはほぼない。

このように神社の偏在が武蔵国と下総国を分けているのがくみ取れる。利根川の最下流域は神社の存在が疎(密の逆)であるが,古代では海であったことがうかがえる。

東京スカイツリーのすぐそばにある牛嶋神社の御祭神はスサノオであり,大宮氷川神社のそれと同じであり,武蔵国に所属していた証拠の一つである。ちなみに,香取神宮の御祭神はスサノオの子孫のオオクニヌシ(出雲大社の御祭神)の天敵(アマテラスの国譲りの使い)であることを付け加えたい。

(2024-04追記)

ちなみに,香取神社の北限は,古河,五霞にあり,南限は亀戸香取神社です。これは横十軒川の東側にあり,牛嶋神社や東京スカイツリーは横十軒川の西側にあります。


2. 中世から江戸時代間近の利根川

(図1,図5,図3の2つ目を参照)

国土交通省の資料(この項の直前の図番なし2023-05)によれば,およそ千年前(古代の終りごろから中世の初め)の利根川は,会いの川から古利根川への流れだった。渡良瀬川・太日川とは離れて,ほぼ平行に流れていたことになる(戸ヶ崎は今の水元公園の埼玉県側,図5参照)。

『川の歴史 - 江戸川河川事務所 - 国土交通省』(再掲)
https://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00222.html

江戸時代よりずっと前に古隅田川(埼玉県)は関東造盆地運動により利根川本流から外れ,古利根川は元荒川と直接繋がり,江戸時代間近には,浅間川・会の川が利根川本流になっている。渡良瀬川・太日川とは分けられたわけである。

江戸時代間近の利根川の本流は,会の川・浅間川,古利根川(葛西用水路・大落古利根川,中川・旧中川)である。当時はすべて利根川と呼ばれていたことに留意。利根川の本流を外れると,古利根川・古隅田川として残ることになる。

古隅田川(埼玉県)の左岸・東岸側は下総国葛飾郡であったが(古文書が残っているらしい),時期は江戸時代(間近)と想像するが武蔵国埼玉郡になった(図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】では古隅田川(埼玉県)は描かれていない,国境でも郡堺でもなくなった)。

3. 江戸時代の利根川(2023-02修正)

(図1,図5,図3)

利根川東遷を簡単にいうと,荒川,新川通,赤堀川,逆川,江戸川上流,中川中流などを開削し,元荒川,会の川,浅間川,権現堂川,古隅田川などが締め切られ,利根川,江戸川,荒川などの本流が今の姿になったことをいう。中川は大正・昭和の改修以降に今の姿になっています。

それらの詳細は
5. 利根川東遷の年代順の詳細
に書きます。

利根川本流の最下流部分が古隅田川(東京都)から古利根川最下流部分(今の中川,旧中川)に移ったのはいつかははっきり判りません。とりあえず,中世から江戸時代間近としてあります。古利根川上流(葛西用水路・大落古利根川)は上に書いたとおり1000年前には利根川本流でした。つまり,古隅田川(埼玉県)が利根川本流を外れた後は川口より南は古利根川だけが利根川本流だったのです。この時期は,(古)隅田川と(古)利根川が区別されていたかもしれません。

利根川の本流が古利根川下流(今の中川,旧中川)から今の江戸川に移ったときに,江戸川上流(関宿から金杉まで)が開削された(1641)ころ,下総国葛飾郡の葛西が武蔵国に編入されました。葛西とは,上に書いた国境の利根川以東と太日川(権現堂川,庄内古川,江戸川下流)以西の間です。

このときから中川下流(古利根川・元荒川合流点より下流)は古利根川と呼ばれています。古利根川の元荒川合流以降が中川と呼ばれるようになったのは1700年ごろといわれています。江戸川は江戸時代終わりまで利根川と呼ばれていました(図5参照)。

葛西の詳細は
11. 国境としての利根川と新しい国境としての葛西
に書きます。

◆◆亀有溜井と小合溜井◆◆(2023-02修正)

江戸時代の一時期に古利根川(中川)と太日川(江戸川)を繋いでいたことがあった。

1594年(文禄3),会の川が流頭(川俣)で締切られ,蛇田堤が川口に築造されて,川口で流頭を切られた利根川は古利根川と呼ばれるようになる。川口から,今の葛西用水,大落古利根川,中川・旧中川である。利根川本流は,浅間川,島川(栗橋南べり),東西権現堂川,庄内古川,太日川に遷る(図3の2番目と3番目の間)。

【異論】松浦茂樹氏や藤原悌子氏(1594年も主張(巻末参考文献参照)2023-02)によれば,1574年には,蛇田堤によって古利根川が締切られたとされている(島川と太日川が利根川本流に)。1576年には権現堂堤(蛇田堤もその一部)が完成したらしい。施工したのは後北条氏だったらしい。

逆に言えば,古利根川(加須市川口から旧中川まで)が利根川本流だったのはそれより前からだったことになる。ちなみに,亀有から小菅で入間川に合流するまでの隅田川が古隅田川と呼ばれるのは,亀有溜井(1600年ごろ)により利根川の流れがなくなってからとされている。

江戸時代間近の利根川本流には,締切前の(元)荒川と綾瀬川が合流していた。そのころの中川は川幅が狭く泥川だったらしい。猿ヶ俣さるがまたと新宿にいじゅくの2ヶ所に亀有溜井の堰(締切堤)を設け,利根川本流(後に古利根川)の水量の大半を太日川に流し,綾瀬川の水量だけを中川に流し,旧中川よりも古隅田川の方へ多く流した。これにより,東西葛西領へ用水の供給ができた。

宝永の洪水(1704)で亀有溜井の猿ヶ俣の堰が破壊されたこともあり,1729年(享保14)に,猿ヶ俣に小合溜井の堰(締切堤)が設けられ,中川と江戸川が分離された。新宿の堰もなくなり,川幅も広げられた中川・旧中川が古利根川本流の地位を取り戻した。

このころまでには,綾瀬川の小菅までのバイパスはできていて中川への流路は締切られていたらしい。また,葛西用水は西葛西領へ,上下之割用水は東葛西領へ用水の供給ができた(埼玉葛西用水の完成は1719,東京葛西用水の完成は1730)。

このころには,古利根川の別名として中川,利根川の別名として江戸川と呼ばれていた。今の利根川は,赤堀川の開削(1654)のあとに完成していたが,水量はまだ江戸川の方が多かったのでしばらく利根川と呼ばれていたらしい。

1809年(文化6)と1871年(明治4)の2度にわたって赤堀川拡幅を行い,利根川の水の大半が常陸川方面に流れるようになり,赤堀川は事実上利根川の本流が流れることとなった

図6【亀有溜井と小合溜井】
亀有溜井と小合溜井 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"


図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】
武蔵国全図古地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

『武蔵国全図古地図 - Wikimedia Commons (8,717KB = 8.51MB)』

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1856_Japanese_Edo_Period_Woodblock_Map_of_Musashi_Kuni_(Tokyo_or_Edo_Province)_-_Geographicus_-_MusashiKuni-japanese-1856.jpg


4. 武蔵国全図古地図上の河川と郡境

上の地図(図7)は安政三丙辰へいしん・ひのえたつ(1856)と書かれています。北を上にするように回転してあります。冒頭に述べたことを検証してみたいと思います。

図3【利根川東遷の歴史地図】の1つ目の利根川本流は合の川で渡良瀬川と合流していました。今の利根川(新川通)の北側に武蔵国埼玉郡(埼玉県)があります。今も残る向古河むかいこがなどがあります。今の利根川の赤堀川は書かれていません。五霞は葛東だからでしょうか?

葛西の北端は栗橋(久喜市旧栗橋町)です。従って,古代の国境である葛飾郡葛西と埼玉郡との郡境の最北端は栗橋の西べりです。

栗橋の南に島川,東に権現堂川,これらが東流から南流に変わるところに今も残る上宇和かみうわがあり,ここから庄内古川となります。これらすべてが今の中川ですが,そのまま利根川(今の江戸川)に繋がっています。これらは太日川(ふとゐがわ,ふとひがわ,発音はふとい)と言われていました。葛西の東べり(葛東との境)になります。

太日川の右岸・西岸を見ていくと,上宇和,長間,大塚,新川あたりまで今の中川の右岸・西岸にあります。八子の北側の上関川,下関川は今は上内川,下内川となっていてその北側が金杉です。上内川から南が江戸川です。江戸川上流開削部は書かれていません。また,金杉は葛東ですので書かれていません。

庄内古川が江戸川と切り離されて,古利根川や元荒川と繋がったのは,大正・昭和の改修以降です。庄内古川の上流・下流とも中川と言われるようなりました(図14【庄内古川の付替と中川の大正・昭和の改修(歴史的農業環境閲覧システム)】を参照)。

その開削は金杉の少し上流から始まり,田島を通り,増森,中島に向かって真っ直ぐに開削されています。古利根川は大きく蛇行していますので,その左岸・東岸の村の名前が詰まっているように見えるのはそのためです。

上の地図の栗橋の高柳の西側に浅間川や会の川らしきものが残っています。それらのここから南が古利根川(今の葛西用水路,大落古利根川,今の中川・旧中川)になります(図1,図5を参照)。亀有の近くまでは葛飾郡葛西と埼玉郡の郡境になっています(江戸時代以前は国境)。

古利根川と元荒川が合流するところが越ヶ谷の中島です。この少し上流の粕壁かすかべは現代の地図でも古隅田川(埼玉県)の左岸・東岸にあって,古文書では下総国葛飾郡なのですが,江戸時代には埼玉郡になっています。

古利根川は亀有で古隅田川と中川・旧中川(古利根川)に分かれます。葛飾郡葛西と足立郡の郡境が古隅田川であり,今も残る亀有,小菅の名前があります。古隅田川,中川・旧中川ともすごく蛇行しています。

葛飾郡葛西と豊島郡の郡境が隅田川であり,寺島まで郡境が書かれています。本所のスサキ,小梅には郡境がありません。城下に本所・深川とありますが,現在の本所・深川とは少し違います。ただし,亀戸天神までが城下となっています。

それらの詳細は
10. 東京スカイツリーの建つ本所・深川地区は古代から近世まで武蔵国豊島郡である
に書きます。

上の図の利根川の河口に長嶋がありますが,江戸川区葛西地区の旧名です。


次の図の詳細な解説は,『5. 利根川東遷の年代順の詳細』で書きます。


図9【浅間川・会の川の合成地図】
浅間川・会の川の合成地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図10【古隅田川(埼玉県)の合成地図】(2022-05地名を記入)
古隅田川(埼玉県)の合成地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図11【古隅田川(東京都)の合成地図】(2023-02小菅東京拘置所周りを国土地理院「治水地形分類図」をもとに修正,また綾瀬駅周りも区堺と異なる)
古隅田川(東京都)の合成地図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

図12【請地古川(古隅田川)と隅田川西遷】
請地古川(古隅田川)と隅田川西遷 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"


5. 利根川東遷の年代順の詳細

(図1,図3,図5を参照)

1594:会の川の締め切り

(再掲2023-02)

1594年(文禄3),会の川が流頭(川俣)で締切られ,蛇田堤が川口に築造されて,川口で流頭を切られた利根川は古利根川と呼ばれるようになる。川口から,今の葛西用水,大落古利根川,中川・旧中川である。利根川本流は,浅間川,島川(栗橋南べり),東西権現堂川,庄内古川,太日川に遷る(図3の2番目と3番目の間)。

【異論】松浦茂樹氏や藤原悌子氏(1594年も主張(巻末参考文献参照)2023-02)によれば,1574年には,蛇田堤によって古利根川が締切られたとされている(島川と太日川が利根川本流に)。1576年には権現堂堤(蛇田堤もその一部)が完成したらしい。施工したのは後北条氏だったらしい。

利根川の中流域で二股に分かれまた合流するところがある。北側が浅間川,南側が会の川である。1594年に会の川が締め切られた。これが利根川東遷の始まりとされている。

会の川の川俣締切跡(羽生市上新郷と上川俣の境界)はここ

36.191092,139.51567

上の緯度経度をドラッグしてGoogleマップの検索窓にコピペするとそこが表示される。

川俣締切跡の記念碑は今は道の駅はにゅうに仮移転しているそうです。川俣締切跡のすぐ南に会の川が残っています。幅が数メートルの2筋の川が数十メートルの間隔で平行に加須市に向かい,古利根川の上流つまり葛西用水に合流している。

1615:綾瀬川の締め切り

1615年に備前堤が築造され綾瀬川(あやせがわ)が荒川;今の元荒川(もとあらかわ)から切り離された。

綾瀬川の起点の碑(桶川市小針領家1457)があるところはここ

36.025399,139.588228

綾瀬川の下流は古隅田川と合流?横断?している。

1621:浅間川の締め切り,新川通の開削

1621:新川通の開削と3本の利根川本流(2023-02修正)

1621年(元和7)に利根川と渡良瀬川を新川通(しんかわどおり)でつなぎ(古河付近),渡良瀬川上流は利根川の支流となり渡良瀬川下流(権現堂川・庄内古川を含む太日川のこと)はそのまま利根川の本流となった。

ほぼ同時に,浅間川を流末の高柳の十王で締め切り,また,利根川本流を川口で,島川を八甫で締切った(図3の3番目)。それまでの利根川は古利根川(ふるとねがわ)と呼ばれるようになった(加須市川口から旧中川まで)(1574年または1594年)

浅間川が流頭の佐波で締切られたのと,合の川が流頭の大越で締切られたのが同じ1838年(天保9)であり,それまで利根川本流として機能していたらしい。浅間川の下流は,栗橋西べりを北流していたことになる。国境としての利根川と逆の流れである。

新川通は最初は幅が狭く,何回も拡幅され,最終的に1838年(天保9)に利根川の本流になったことになる。

利根川本流・太日川下流は江戸川とも呼ばれるようになったらしい(本格的には上流開削後)。

新川通の起点/浅間川締切跡(加須市佐波)はここ。

36.17592,139.639342

図4【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】図9【浅間川・会の川の合成地図】を見てもらえば判るが,浅間川の締め切りによってできた古利根川は今の地図には掲載されていない。旧い会の川と旧い浅間川の合流地点(加須市川口)から下流が旧い古利根川である(旧中川まで)。そしてその上流部分は今は葛西用水路となっている。そしてさらに下流側が今は大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)となっている(元荒川合流まで,今は中川合流まで)。

江戸時代半ば頃までに,古利根川は農業用水路や排水路化して,古利根川,元荒川の合流以降は中川と呼ばれるようになった(1700年ごろ)。

葛西用水路の終点・大落古利根川の起点はここ

36.059050, 139.700182

久喜市立太東中学校のそばの葛西橋の南側に明らかに川幅が広くなるところが葛西用水路・大落古利根川の接合点である。

葛西と葛東を分ける太日川の上流部の庄内古川の流路

国境としての利根川の東側に下総国葛飾郡がある。その中央に太日川があり,葛飾郡を葛西かさいと葛東かつとうに分けている。つまり,古代の利根川の左岸・東岸は葛西である。

葛西の北端が栗橋(久喜市旧栗橋町)である。葛東の北端が古河市であり,栗橋の東隣に五霞がある。五霞の西べりに南北権現堂川と南べりに東西権現堂川があり,これが太日川の始まりである。

南北権現堂川はのちの開削であり,川口から島川,東西権現堂川の筋が太日川であるとの説もある。しかし,栗橋は葛西であり五霞は葛東であるので南北権現堂川が太日川であるとの説を採りたい。

中川の大正・昭和の改修までの庄内古川は締切られていました(廃川または排水路だった)。この改修によって,庄内古川と古利根川と元荒川が繋がりましたが,同時に,島川,東西権現堂川,庄内古川(古川筋)が改修されて現在の中川になっています。

現在の中川は,上宇和からの南流(庄内古川(古川筋))ですが,江戸時代以前と江戸時代初期の太日川も何となくそうであったとされています。

松浦茂樹氏によれば,江戸川上流部開削の前後から庄内古川(新川筋)ができたことになっています。その文献の中で,橋本直子氏が,中島用水の一部が庄内古川(新川筋)であることを引用しています。

下の図をよく見てもらえば判りますが,庄内古川(新川筋)は江戸川上流部開削の前からあり,庄内古川(古川筋)よりも旧い河道のようです。自然堤防の微高地が見られ,大河が数百年単位で作った跡に間違いないと考えられる。つまり,新古が逆ではないかと考えられる。

また,図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】に,下宇和,惣(新田)が書かれていることは葛西に属していることを示します。1728年に,江戸川の直流化が施工されたときに,葛東の平方新田が江戸川の西岸に移ったが葛西にならず葛東のままであったことから判るように,庄内古川の東遷によって葛東の下宇和,惣(新田)が葛西に移ったのではなく,元々葛西であったのである。つまり,江戸時代以前から太日川がその東にあることになる。

宇和村が上と下に分かれていることからも,庄内古川西遷説の方が信憑性があるような気がします。

村上慈朗氏によれば,赤堀川が開削される前から,逆川を経て常陸川と庄内古川は繋がっていて,大山沼,釈迦沼,水海沼の水は両方の川に流れていたとされています。

郡堺が川であることはよくあるが,川の流れが変わっても郡堺が変わらないのは,年貢の関係で領地を増減するわけにはいかないという理由があるからだと考えられる。

(2023-02追記)

原太平「幸手領・惣新田地域の開発・整備からみた利根川東遷」によれば,武蔵国と下総国との国境は中世まで古利根川筋であったが,寛永年間(1624~1643)に庄内古川(古川筋,下流は太日川)に変わった。その後,延宝年間(1673~ 1680)ごろ庄内古川(新川筋)に変わり,とある。

幸手市のHPにある江戸時代の「権現堂川通り堤川除組合」によれば,組合には下宇和田や惣新田は加入していない。これを国境の根拠とするのは少しおかしい。図3と図13をよく見てもらえば判るが,江戸川上流開削は逆川と一体の工事であり,庄内古川(新川筋)はその工事によりつぶされたのである。それが新しい国境になるのはありえない。

江戸川による国境の変更は,葛西だけが武蔵国に編入されたのであり,江戸川上流の右岸・西岸の葛東は埼玉県に編入されたものの,江戸時代は下総国葛飾郡のままであった。江戸川下流は元々太日川であるので葛西・葛東の堺つまり新国境となった(葛西・葛東は別の郡扱いである)。

太日川の流れが替わっても葛西・葛東の堺は変わらない例は前にもいくつか示したが,今一度,五霞や金杉の例も思い出してほしい。これらは地政学的にも武蔵国となってもおかしくないと考えるが,かたくなに下総国のままである。簡単には郡境,国境は変わらぬものである。


図13【葛西と葛東を分ける太日川の上流部の庄内古川(治水地形分類図)】(1キロが128ピクセル)
葛西と葛東を分ける太日川の上流部の庄内古川 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

1629:荒川の瀬替え;荒川の西遷

1629年に武蔵国久下(熊谷市久下)で荒川と旧吉野川(よしのがわ)をつなぎ川越付近で入間川(いるまがわ)と合流,旧い利根川(古隅田川)と合流して隅田川となり,ほぼ現在の姿になった。元荒川は同じところで締め切られた。

元荒川の起点/締切跡(熊谷市久下)はここ

36.131728, 139.395789

1647:江戸川の完成

1641(寛永18):江戸川上流の開削

猪俣寛氏によれば,1647年(正保4)に通水されたそうだが,ここでは,Wikipediaの説の方をとる。

1641年に権現堂川(ごんげんどうがわ)の下総国関宿(千葉県野田市)から金杉(埼玉県松伏町)に至る水路の開削が完成し当時だけ新利根川と呼ばれた。これが,庄内川(太日川上流)のバイパスとなり赤堀川との接続を除いて今の江戸川が完成した(太日川の金杉から下流側はそのまま江戸川となる)。庄内川は締切られ庄内古川となる。後に中川として復活する。

ただし,この時点では江戸川は利根川であり,江戸川の上流部分のすぐ西隣に太日川上流(庄内古川),江戸川の下流部分のすぐ西隣に古利根川下流が流れていることになる。西隣にあるこの2つの川は後に中川と呼ばれるようになる。

1728年,江戸川開削部と庄内古川の合流点を金杉から下流の加藤(吉川市)に付替えた(庄内古川をバイパスしたと同じ)。理由は,江戸川から庄内古川への逆流から守るため。金杉の締切場所に新利根川碑が建立されている。

同時に,加藤(吉川市)の北隣の吉屋と八子の間は庄内古川(南端部?)が湾曲していてそこを直流化した。葛東の平方新田が右岸・西岸になった(武蔵国全図古地図に載っていないのは葛東だから)。

図14【庄内古川の付替と中川の大正・昭和の改修(歴史的農業環境閲覧システム)】
庄内古川の付替と中川の大正・昭和の改修 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

1654:赤堀川の開通,1665:権現堂川の締め切り

1654年に利根川と常陸川をつなぐ赤堀川(あかほりがわ)が完成し,これで利根川の水がはじめて香取海(かとりのうみ)(銚子付近)に注ぐ。

1665年に逆川(さかさがわ)により江戸川を赤堀川につなぎ(境町・関宿間),権現堂川(ごんげんどうがわ)を締め切った。これで霞ケ浦・関宿・江戸の水路が完成したことになる。図4【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】はこのころを示している。

権現堂川の締切跡/赤堀川の起点はここ。

36.135449,139.710388

逆川はさらに赤堀川の上流側に付替えられて,今の江戸川となった。

今の利根川と今の江戸川の分岐点(野田市関宿の少し上流)はここ

36.109311,139.776242

1666:新利根川の開削・締め切り,1676:将監川の開削・締め切り

1666年に新利根川(しんとねがわ)が開削され霞ケ浦に直結された。が,翌年洪水で廃止された,または,3年後に元の流路に戻されたという2つの説があるようである。いずれにしても排水路や用水路として使われているようである。

1676年に将監川(しょうげんがわ)が開削された。これも近年になってやはり洪水対策で締め切られている。

新川通・赤堀川開削図

幸手市のHPに利根川改修履歴図という旧い地図が掲載されていた。この地図には,新川通,赤堀川の流路が詳細に記されていたのでマップに書き直して紹介する。

図4【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】に今の中川は書いてありませんが,島川跡,東西の権現堂川跡,庄内古川跡に流路を狭くして存在しています。つまり,この開削よりずっと後に庄内古川は江戸川から切り離され古利根川に合流し(大正・昭和の庄内古川改修事業),ずっと上流まで中川と呼ばれるようになったのです(この中川は図1【利根川東遷 精密全体地図】には書いてありません)。

ということで,今の中川の上流は江戸時代間近の太日川(権現堂川,庄内古川)であり,下流は江戸時代間近の利根川ということになります。今の中川の島川跡より上流は浅間川と会の川の間にあります(ここも島川と呼ばれることがある,図9【浅間川・会の川の合成地図】を参照)。

中川の起点の碑(羽生市東7丁目)があるところはここ。

36.168918,139.547441

Googleマップを拡大してみると廃川になっても,水路が残っていたり,点々と溜池?が残っていたり,市町村の境界になっていたりして,その痕跡はよく残っている。

6. 江戸付近の詳細

(図5を参照)

図5【利根川東遷 治水地形分類図】で江戸川の流路の中で国府台付近は微高地の分水嶺になっています。自然川が分水嶺を乗り越えることは普通ないので,このあたりの江戸川は開削された人工水路であるという研究が他のいくつかのサイトにあるので確認してください。一方,江戸川は旧い太日川そのままであるという説もあります。治水地形分類図を詳細に見る限り,大きな旧河道は見当たりません。

図4【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】の逆川にも微高地の分水嶺がありました。それで適度の勾配を得るために江戸川を赤堀川の1キロメートルほど上流側に付替えたのです。図1【利根川東遷 精密全体地図】を見ても判るように赤堀川付近は大分水嶺だったのです(ただし標高は10メートルちょっと:関東平野がそれほど平らであること)。正確には,大山沼(おおやまぬま)は権現堂川に(つまり江戸湾に),釈迦沼(しゃかぬま)は常陸川に(つまり銚子に)つながっていました。この間が大分水嶺です。

余談ですが:
日本一長い川である千曲川・信濃川(ちくまがわ・しなのがわ)の源流は秩父山地の甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)のそばにあり荒川の源流もほぼ同じところにあります。日本海と太平洋に注ぐ2本の大河の源流を分水しているのが秩父山地であり日本の大分水嶺です。

1930:荒川放水路の完成

1930年(昭和5年)に荒川放水路が完成した。1965年に荒川の本流となる。つまり放水路の言葉が取れて,それまで荒川の本流であった隅田川が支流となった。この荒川が総武線鉄橋の近くで中川を突っ切り中川と旧中川に分断しているのをご存じだろうか。川が川を横断することは利根川東遷の工事ではよくあったのではないだろうか。

今の荒川と今の隅田川の分岐点(岩淵水門)はここ

35.787723,139.732189

荒川が中川を横断しているのはここ

35.719026,139.842138

7. 浅間川・会の川の詳細

(図9を参照)

とりあえず,今の中川との合流点まで浅間川,会の川としている。

会の川締切はここ

36.191092,139.515742

会の川締切の記念碑は道の駅はにゅうに仮移転している

36.189013,139.510992

浅間川締切はここ(新川通の起点でもある)

36.17592,139.639342

新郷駅の東にある会の川(二筋の川が平行して流れているがこれが元の川幅なのか?)

36.172424,139.512806

会の川親水公園はここ(このあたりは会の川跡がわかりにくい)

36.127093,139.598293

浅間川・中川の合流(残っている水路の合流点である)

36.11725,139.664957

8. 国境としての古隅田川(埼玉県)の詳細

図10【古隅田川(埼玉県)の合成地図】を参照)

江戸時代よりずっと前の中世の利根川・隅田川の流路は図3【利根川東遷の歴史地図】の1つ目と図16【下総国葛飾郡の葛西の地図】に示されていて一部に古隅田川の名前が残っている。

春日部の古隅田川は古代では西進していた。江戸時代よりずっと前に利根川の本流から外れた後?,いつか不明だが,(元)荒川との接続点が下流から上流に付替えられ,東進するようになった。つまり,下流の合流点から上流の分岐点(分流点)に付替えられたのである。

関東造盆地運動で川の流れが逆川のようになり,利根川本流を外れたようだが,(元)荒川の付替えとの前後関係は不明である。

付替えで西進から東進に替えられた理由は,古利根川と元荒川との高低差がほとんどなかったため適度な勾配を確保するためと考えられる。グーグルアースで確認したところ,古利根川との接続点と元荒川との合流点の標高が同じ6メートル,元荒川との分流点が標高7メートルであった。

国土地理院の地図ではもう少し詳細に調べることができる。

上の図の古隅田川の流路は,明治時代の地図の古隅田川の堤防や流路の周囲の村名や道名と今の地図に残っている痕跡を参照して決定した。

古利根川・古隅田川分岐点はここ(標高6メートル)

35.984656,139.751651

元荒川・古隅田川合流点はここ(標高6メートル)

35.934357,139.732758

元荒川・古隅田川分流点はここ(標高7メートル)

35.974264,139.694713

9. 国境としての古隅田川(東京都)と請地古川

図11【古隅田川(東京都)の合成地図】図12【請地古川(古隅田川)と隅田川西遷】を参照)

江戸時代以前の利根川は葛飾区亀有付近で古利根川(今の中川・旧中川)と古隅田川に分かれた。古隅田川は概ね足立区と葛飾区の区界であり,武蔵国足立郡むさしのくに・あだちごおりと下総国葛飾郡しもうさのくに・かつしかのこおりの郡堺つまり国堺であった。

そして浅草の手前の砂州の中でいくつかに分流し,その東側流路は須崎村(向島5丁目)と寺島村(東向島1丁目)との境(鳩の街通り)を左岸べり?とする流れで,その先は今の横十間川よこじっけんがわとほぼ同じ流れであった。

古隅田川と中川の分流場所はここ(土手に痕跡が残っている?)

35.764518,139.855775

古隅田川と今の隅田川の合流場所はここ(隅田川神社は合流場所の中洲にあったそうです)

35.732797,139.812688

10. 東京スカイツリーの建つ本所・深川地区は古代から近世まで武蔵国豊島郡である

図12【請地古川(古隅田川)と隅田川西遷】を参照)(この項だけ読んでも理解できるように繰り返しも多い)

図12(再掲)【請地古川(古隅田川)と隅田川西遷】
請地古川(古隅田川)と隅田川西遷 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

武蔵国と下総国の国境は江戸時代以前は古利根川・古隅田川である。江戸時代に江戸川が利根川になったとき葛飾郡の葛西が武蔵国に編入されたがその葛飾郡の葛西と武蔵国足立郡や武蔵国豊島郡との郡界は古利根川・古隅田川のままである。

古利根川・古隅田川は利根川本流でなくなったときに付いた名前であり,今でも残っているものもあるが,埋め立てられたものある(暗渠では名は残る?)。

鎌倉時代の地図には,浅草観音のそばの葛飾郡寺島(墨田区東向島)と豊島郡牛島(墨田区向島)の間に利根川があった。江戸時代以降その跡に古隅田川と呼ばれていた請地古川があったのです。
請地古川;うけじふるかわ(「うけち」とタイプするが誤読み)

◆◆国境の決定的な証拠:古利根川・古隅田川◆◆

『歴史探訪_21押上界隈の歴史あれこれ_oshinaka』
https://www.oshinaka.com/1245.html
『リンク切れならこのWebサイトよりD/L』(2022-05)
https://yamakatsusan.web.fc2.com/keiido_tonegawa/ukejifurukawa.html

上のWebサイトは押上一丁目仲町会が出しているもので,東京スカイツリーがある押上一丁目と三丁目との間には,古隅田川と呼ばれていた請地古川があったところなのです(今の新あづま通りの二筋くらい西側)。

鳩の街通りと新あづま通りとはほぼ直線で繋がっていて,その一筋(幅が広いところは二筋)西側で緩やかなカーブを描いているのは川の証拠です。

押上一丁目の東端には,十軒橋があり,その南側には横十軒川があります。このWebサイトには,押上一丁目は本所・深川地区であるとの矜持が感じられます。

その古隅田川と今の隅田川が囲まれているところが東京スカイツリーがある本所・深川地区であり,江戸時代以前より武蔵国豊島郡であった(上の鎌倉時代の地図にも書かれている)。
本所・深川;ほんじょふかがわ

◆◆請地古川と鷭土手と鶴土手◆◆

図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】では,請地古川(古隅田川)はでてきませんが,下の隅田川向島絵図(Webで多く見つかる)にでてきます。川の名は書かれていませんが,川岸に正圓寺,圓通寺があるのがそれです。請地古川からその南に延びているのが横十軒川です。やはり古隅田川と言ってもよいと思います。

請地古川は鳩の街通りの一筋西側にあるのですが,Wikipedia「隅田川」では鳩の街通りを鷭土手と読んでいます。そして,数百メートル北東にもう一つの鶴土手(地蔵坂通り)があるのです。

下の図の請地古川の一つ東側の川ですが,川の名は書かれていません。川岸に小村井香取神社,吾嬬あづま神社があるのがそれです。香取神社,吾嬬神社は北十軒川の近くです。

2つの土手の距離は数百メートルであり,大河がここにあったのは間違いないです。国土地理院:治水地形分類図でも自然堤防の跡が見れます。

ちなみに,さらに東側にある川筋は,中川・旧中川です。渋江村のそばの客人まろうど大権現(渋江白髭神社)が今の地図で渋江公園,渋江小の近くにあります。

隅田川と古隅田川に囲われているところがちょうど本所・深川地区になります。東京スカイツリーがあるのは下の図の小梅村(現押上1丁目)です。

図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】の隅田川の河口にこう書かれています。
『此川を境にて武蔵下総の境とす,然れども近代本所深川を新武蔵と云う』

(2023-02追記)

請地古川の流頭近くに牛ノ御前(牛嶋神社)(向島)があります。御祭神は須佐之男命スサノオノミコトであり武蔵国に約280社ある氷川神社と同じです(大宮氷川神社は武蔵一宮)。向島(本所・深川)が武蔵国である証拠の一つでもあります。

請地古川の東にあるもう一つの川の東側にある香取神社は下総一宮の香取神宮の系列です。香取神社は全国に約400社ありますが,武蔵国にはほとんどありません(赤羽と春日部くらい?)。古隅田川(埼玉県)の左岸・東岸には10社ほどあります。古隅田川(埼玉県)も古隅田川(東京都)も古隅田川(請地古川・横十間川)も古代の国境であったと考えられます。


図15【請地古川(古隅田川)と小梅村】
請地古川(古隅田川)と小梅村 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"


◆◆牛島堤と隅田堤◆◆

隅田川左岸の川は,家康が関東に入国(1590)してからすぐ締切られたそうです。ただし,大河を締切り灌漑するためであり,細い川筋は残りました。

隅田川左岸の堤は,墨田区東向島(寺島)の西べり(堤通の東べり)の墨堤通りを隅田堤と言い,墨田区向島(須崎;古代の牛島)の西べりの墨堤通りを牛島堤と言います。全部を隅田堤と言う人もいます。

葛飾郡と豊島郡の境である鳩の街通り(鷭土手)が向島(須崎;古代の牛島)と東向島(寺島)の境でもあるのでそのような区分が使われたかもしれないのです。向島は本所・深川地区の北端です。

牛島は,牛嶋神社の文字を使った方がよいかもしれません。ただし,今はこの界隈に牛嶋という地名は一切残っていません。

◆◆Wikipedia「隅田川」◆◆

Wikipedia「隅田川」によれば,今の隅田川は宮戸川,横十軒川を隅田川と言い,隅田川が葛西との境界である,とのこと。
横十軒川;よこじっけんがわ(「じゅっけん」とタイプするが誤読み)

Wikipedia「隅田川」そのまま書けば,
『北条氏所領役帳』に見られる江戸地域と葛西地域の区分は,現在の隅田川ではなく分流のいずれかが境界線になる[14]
[14] 『特別展 隅田川流域の古代・中世世界 水辺から見る江戸東京前史』の図録本では,現隅田川を宮戸川(別称ではなく正式名称として),分流を(中世の)隅田川と位置づけ,中世においてはこの定義での隅田川(最下流は横十間川付近の河口)を国境としている(関連リンク 中世から江戸初期にかけての隅田川 - 消えた隅田川/ スカイツリー634m 一考 - 武蔵・下総の国境,隅田川)。(リンク切れ)

特に明治以降,南葛飾郡ができたとき混乱から豊島郡から編入された村があり,南葛飾郡に属することをもって葛飾郡に属していたと主張する人が多くいた。古隅田川の川筋が現在残っていないからだと思われる。

請地古川(古隅田川)は十軒橋付近を流れていたが,その東西両側に墨田区押上があり,その西側の(東京スカイツリーのある)押上一丁目と二丁目1~30が本所・深川地区に属している。請地古川の右岸西側は元々は請地村であったのだが,ここでも混乱を生じている。

◆◆Wikipedia「両国橋」だけが変な主張をしている。◆◆

牛島堤の締切(1600頃),荒川の西遷(1629)のずっと後の1659年(万治2年)または1661年(寛文元年)に架けられた両国橋は,当時は大川に架けられた大橋であり,古隅田川も郡境もまったくなかった。ずっとあとで誰かが印象操作を始めた。

足立区と葛飾区の区界の古隅田川は江戸時代も郡界であったので,今の隅田川に延長するのは印象操作です(下の地図を参照)。

11. 国境としての利根川と新しい国境としての葛西

図16【下総国葛飾郡の葛西の地図】
下総国葛飾郡の葛西の地図

中世以前の利根川・隅田川(古利根川・古隅田川として残る)が武蔵国と下総国の国境であり,その左岸・東岸側は旧くは下総国葛飾郡と呼ばれていた。北は古河市から南は船橋市までである。

葛飾郡はさらに2つに分けられて,国境の利根川(マゼンタ色の筋)以東,太日川(赤色の筋)以西を葛西(かさい)(黄色の部分)といい,葛西の東側を葛東(かつとう)という。太日川は,権現堂川,庄内古川,江戸川下流である。最北端部分を除き,金杉より上流は今の中川,金杉より下流は今の江戸川である。

渡良瀬川;わたらせがわ
庄内古川;しょうないふるかわ
太日川;ふとゐがわ,ふとひがわ

江戸時代に利根川東遷により武蔵国と下総国の国境は赤色の筋からマゼンタ色の筋へ変更になり葛飾郡の葛西全部が武蔵国になった。さらに葛東のうち今の江戸川の金杉から上流の西岸側(庄内古川;今の中川との間)は葛西と同じく埼玉県になった。


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12. 古代の利根川と荒川そして入間川

(図5を参照)(この項だけ読んでも理解できるように繰り返しも多い)

図5(再掲)【利根川東遷 治水地形分類図】(1キロが32ピクセル)
利根川東遷 治水地形分類図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

利根川の東遷と荒川の西遷は江戸時代の事業である。それより前に利根川と荒川の流路はどうだったのか調べてみたい。

水のFORUMフォルムの藤原悌子氏によれば,2万年前には,大宮台地と館林台地が繋がっていて,荒川低地には利根川と荒川が,中川低地には渡良瀬川が流れていたらしい。4千年前には,関東造盆地運動により加須低地ができ,中川低地に利根川と荒川が流れ込んでいたらしい。

そのあと時期は不明だが,荒川から利根川に向かって荒川扇状地ができ,自らの堆積物によって流路が阻まれ,東流から南東流になり,大宮台地を突っ切るようになった。

ただし,利根川も荒川も,どの時代にどこを流れていたと確定するのはかなり難しい。律令時代(飛鳥・奈良時代)に国や郡ができ,それは江戸時代まであまり変わらなかったと思われ,図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】に痕跡が残っているはずである。

◆◆国境としての利根川◆◆

大化の改新(645)の頃に国ができたとされている。大宝律令(701)の頃に郡ができたとされている。

利根川は,武蔵国と上野国,下野国,下総国との国境になっている。今の利根川の北側に埼玉県加須市がある。ここが武蔵国と周辺国との国境である。利根川はここを北流,東流,南流する。

次に栗橋(久喜市旧栗橋町)の西べりを南流し,加須市川口から今の葛西用水路,大落古利根川となる。会の川,浅間川の締切のあとには古利根川とよばれていた。

春日部市粕壁から古隅田川になり,さいたま市岩槻城址近くの長宮と大戸(2024-04修正)で元荒川の左岸に合流する。そして越谷市中島で古利根川と合流する。中川の大正・昭和の改修によりここに庄内古川が延長されてくるのである。

今の足立区と葛飾区の区境つまり亀有から小菅までの流路を古隅田川という。今の隅田川を2キロほど南流してから,今の東向島(寺島)と向島(牛島)の間を南東流する。ここは古隅田川と呼ばれた請地古川のあったところである。ここから横十軒川として南流する。

◆◆郡境としての荒川◆◆

古代の荒川の本流は今の元荒川と綾瀬川である。埼玉郡と足立郡との郡境であり,古代の大河であった。今の元荒川は熊谷市久下で締切られていて,綾瀬川も備前堤で締切られていて,今の管理起点が小針領家となっている。

綾瀬川の終点は八潮市垳がけであり,今は垳川になっていて溜井である。現在は八潮市浮塚から小菅に向かって放水路があり本流となっている。

さて,綾瀬川は大宮台地岩槻支台の西側を流れているが,もう一筋の川筋が大宮台地を突っ切っている。それが岩槻支台の東側を流れている星川である。その下流部は今は元荒川になっている。

時期は明確ではないが,おそらく中世の戦国時代に岩槻支台の蓮田市高虫から根金へ元荒川を開削したと思われる。その下流部は(古)利根川と合流する。これにより大宮台地を突っ切る川筋は元荒川一筋になってしまった(自然川はゼロとも言える)。

元荒川下流部(旧い星川)は郡境ではないことに留意してほしい。

星川の上流部は今は見沼代用水と兼用になっていて,その見沼代用水は荒川と綾瀬川と合流することなく交差(伏越)して見沼を通り,毛長川に到達する。見沼代用水は台地を3回も乗り越えて,芝川とも交差している。

◆◆縄文・弥生・古墳時代の入間川◆◆(2023-02修正)

縄文・弥生・古墳時代の旧入間川は大宮台地の南べりを流れ,途中で鴨川と少し重なり,芝川と少し重なり,終点は今の毛長川であり,足立区花畑で綾瀬川と合流する。この両岸には古墳群がたくさん存在する。

実は,足立郡の南べりは今の荒川であり,中世の入間川である。つまり,大宝律令で郡が作られる頃には,旧い入間川はすでに南に移っていたことになる(南遷?)。

入間川の流路が南に移った理由は,自らの堆積物により行先を阻まれたことによるらしい。地図を見ると蛇行も多いし東流では標高差もあまり無かったのが理由と思われる。

鳩ヶ谷付近では,旧い入間川の流路が,鳩ヶ谷支台の裾に沿う見沼代用水東縁のすぐ南側で平行であり,農業用水路並みの勾配の低さだったことが見てとれる。

(2023-02追記)

川口市郷土資料館『母なる芝川』によれば,

約5000年前,大宮台地と武蔵野台地との間には現在の埼玉県と群馬県の県境を流れる利根川が流下し,そこへ荒川が合流する大河が存在しました。芝川はこの太古の利根川に流れこんでいたと考えられますが,膨大な水量をほこった利根川は海岸線の後退にあわせて川口市周辺の低地に砂州を形成していきました

約2000年前の弥生時代には,利根川は荒川をともない現在の埼玉県北部あたりに流れを変え,その跡には支流であった古代の入間川が流れるようになります。古代の入間川は太古の利根川が堆積した砂州に行く手を阻まれ南流することができず,蛇行しながら大宮台地の南端を東西に横切るかたちで現在の毛長川の川筋を草加市方面へ流れていました。古代の入間川は,土砂を堆積し沿岸に自然堤防と呼ばれる微高な土地を形成させ,川床の堆積も進行するようになると本流を現在の荒川筋へと移していきました。

古代の芝川は,神根・青木地区の境で古代の入間川と合流していましたが,入間川の本流が移ると入間川が形成した自然堤防に沿って南流をはじめます。芝川は鳩ヶ谷地区で大きく蛇行する流路はとらず,現在の旧芝川と同様に市内の中央・南平地区の境を流れて入間川(現在の荒川)へ合流するようになったと考えられます

【注記】藤原悌子氏によれば,4000年前の縄文時代には利根川と荒川は中川低地に遷っていたとしている,いずれにしても,今の荒川の流路(南遷後の旧入間川の流路;武蔵国足立郡南べり)は,大宮台地と武蔵野台地との間(荒川低地)を流下していた利根川と荒川の流路だそうです。

大宮台地の南べりの旧入間川の周りには古墳が多い。が,ほとんどが円墳であり,前方後円墳に代表される古墳時代より少し前の弥生時代後期だったと思われる。そしてその後に律令時代までに今の荒川の流路(古代の利根川の流路)に南遷したと思われる。

図17【大宮台地:7つの支台 色別標高図】
大宮台地:7つの支台 色別標高図 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

13. 中世利根川が葛和田から綾瀬川と合流していたとする説(荒川上流部の本当)

図18【葛和田から綾瀬川へ(国土地理院:治水地形分類図)】
葛和田から綾瀬川へ 拡大:Ctrl+"+" または Ctrl+ホイール↑,戻す:Ctrl+"0"

太田道灌の時代の中世利根川が葛和田から綾瀬川と合流していたとする説は明治41年の根岸門蔵『利根川治水考』に書かれているそうである。本当にそんなことが可能か検証してみよう。

橋本直子氏によれば,「1457(長禄2?)年,江戸城を築いた太田道灌が葛和田から東南に向かう星川・綾瀬川に入る流路を締め切ったという説(根岸門蔵『利根川治水考』)は,中条堤の有無で可能性が出てくる。」とのこと。

ただし,中条堤というのは,江戸時代に行田市北河原,旧い福川の右岸だけに作られたもの。橋本氏は,江戸時代利根川の水害という文脈の中で語られている。

佐藤俊朗『利根川の治水史について』によれば(2023-02),

「古来利根川は鳥川を合流した下流においては定まった流路もなく,荒川,渡良瀬川等幾多の河川と錯索,湾流をきわめ,江戸湾に流入していたものであるが,長禄元年(1457)太田道濯が創めて江戸城を築くに当って,埼玉県大里郡葛和田地先より,南方北足立郡草加町,新宿町を経て,江戸湾に達する水路を浚疏しゅんじゅんしてのち,ようやく下流における利根川の河身が決定されたのである。戦国時代には,利根川は広瀬川から離れ,前橋市の西を過ぎきて沼之上で鳥川を合流,川俣から会ノ川を経て,古利根川筋を流れ,松伏領で荒川を合わせて猿ヶ俣よりは古隅田川筋を流下し,隅田で入間川を合流し,以下浅草川,あるいは隅田川と呼ばれて江戸湾に流入してしいたのである。」

上のことは,江戸時代間近の流路は太田道灌が決めたと言っているようだ。だが,その前の流路は葛和田,草加,新宿となっていて,利根川から綾瀬川までの流路が判らない。

松浦茂樹『綾瀬川の歴史と現状』によれば(2023-02),

太田道灌が岩槻城を長禄元(1457)年に築いたときは,既に主流は古隅田川筋を離れ,現在の古利根川筋に移ってしまったといわれるが,この後,この旧河道を利用して末田須賀堰,瓦曽根堰が設置されたと考えている。当時,この河道には野通川,星川が流入していたが,これらの河川は山地に水源をもたず通常時の流量は少なかった。流量が少なかったからこそ当時の技術でもって両堰を築くことができたのだが,灌漑用水は不足する。それを補うものとして,下栢間・高虫間の開削が行われ,荒川を導水したと考えている。なお瓦曽根堰は慶長年間に伊奈忠次によって築かれたといわれているが,慶長の頃の整備は,旧来からあったものの修復ないし増強と判断するのが妥当だろう。

上のことは,元荒川上流から元荒川下流(星川)に向かって,高虫から根金までを開削した太田道灌が,利根川本流を外れた古隅田川(埼玉県)の流量分を補い,この近くにある岩槻城のお濠に導水したと言っている。さらに下流に農業用水のための堰をつくったとのこと。

(2023-02追記)

1590,豊臣秀吉が小田原城攻めをしているときに石田三成が忍城水攻めをしていたことから判るように忍はきわだって低地である。

この項の最後に書いたように,15世紀中ごろより前には(元)荒川も忍,箕田を通っていた。葛和田からの利根川も同じところを通っていた可能性がある。ただし,本流ではないと思われる。

太田道灌は,本流ではない利根川南流の締切,荒川の榎戸への瀬替え,荒川の高虫から根金までの開削,星川の根金への接続などをほぼ同時に成し遂げた可能性がある。

◆◆大宮台地を突き抜けている河川は元荒川だけ◆◆

元荒川や綾瀬川は大宮台地の谷筋を流れている。大宮台地は荒川低地と中川低地に挟まれている。

中川低地を流れているのは,江戸時代間近の利根川と太日川である。江戸川上流開削部は下総台地の中を流れている。

大宮台地を突き抜けている河川は,中世以前は,岩槻支台の西側を,(元)荒川と綾瀬川,岩槻支台の東側を星川を流れていて,星川の下流は,(古)利根川に合流していた。

綾瀬川を締切る前に元荒川の上流部と下流部(星川)を繋げるため岩槻支台を蓮田市高虫で開削したらしい(西側から東側へ,時期不明,おそらく戦国時代)。これにより,星川は元荒川の支流になり,元荒川の下流は,(古)利根川に合流していた。このころには,古隅田川(埼玉県)もそれと合流した元荒川も利根川の本流から外れていたと思われる。

戦国時代の初期に利根川が大宮台地を流れていたことがあるのだろうか?

◆◆荒川扇状地の河川は東流◆◆

上の図で,荒川と利根川の距離が一番短いところが荒川扇状地である。旧河道が網の目のようにあるが皆東流である。荒川側の標高が10メートルほど高いからである。

その扇状地の下端部分である葛和田から河川が流れ出るようなことがあるのだろうか?

◆◆葛和田からの東流河道◆◆

荒川扇状地の旧河道は利根川に近づくにつれ東向きになる。葛和田の標高が25メートルほどだが利根大堰の南の上星川あたりでは標高が20メートルほどになるためである。ただし,葛和田から直接上星川に繋がる旧河道は図からは読み取れないが,それらしい旧河道はいくつか存在する。

そして,利根大堰の南から南東流の旧河道が複数あり,それが会の川から分かれた旧河道と合流し,上種足たなだれ(図の中心+印)に向かっている。その中心は見沼代用水(星川)である。

◆◆見沼代用水は大宮台地に入る前は元荒川と平行流◆◆

上種足(図の中心+印)あたりで,見沼代用水(星川)は南へ向かって鴻巣CCを通り元荒川にショートカットできそうだが,実際は元荒川が微高地(黄色ゾーン)に囲まれているためできないのである。実際に旧河道は見当たらない(図の青い点線)。

見沼代用水は,星川と兼用部分は自然川,その他は人工川である。見沼代用水から分流された星川は岩槻支台の東側の元荒川と合流するのである(蓮田市根金)。

◆◆葛和田から綾瀬川と合流する河川は見沼代用水とする説◆◆

葛和田方面から大宮台地に侵入する旧河道は,見沼代用水または星川しか見当たらないので,『利根川治水考』を支持する人たちは,それが綾瀬川に合流していたのだとする。

しかし,図を見てもらえば判るが,元荒川の鴻巣市郷地あたりにショートカットした可能性はゼロではないが,やはり現在の流れのとおり,岩槻支台の東側の蓮田市根金あたり合流した可能性の方がはるかに高いと考えられる。岩槻支台の西側の綾瀬川に直接合流する谷筋は岩槻支台の中にはまったくないと言わざるを得ない。

旧河道からみても葛和田あたりまたは利根大堰あたりまたは会の川から見沼代用水(星川)への川筋はあったとして間違いないが,それが利根川本流とする根拠は非常に薄いと考えられる。この星川は(古)利根川に合流する。(元)荒川が開削されていれば,元荒川に合流することになる。

一つだけ加えておくと,中条堤がある北河原の南方の星川と元荒川の間は標高19メートル以下の細い隙間の低地がある。荒川扇状地に比べて際立って低いし,堤防の跡もある。上の鴻巣CCのショートカットよりも可能性があるかもしれない(両方とも青い点線)。

まとめると,繰り返しになるが,図の3つの点線のうちで,最も可能性が低いのが,上種足から鴻巣CCを通るショートカットである。

(2022-06追記)松浦茂樹氏・澤口宏氏によれば,古代・中世の荒川上流部は,荒川扇状地を東進し(たぶん星川),直角に曲がって南流し,行田市忍,鴻巣市箕田を通っていたらしい(地図の青点線)。15世紀中ごろには鴻巣市榎戸に転流したらしいです(自らの堆積物によって流路が阻まれた?)。

青点線は,縄文後期後半の利根川でもあるらしいです。加須低地ができてから南流から東流に転流したらしいです。古墳時代より前のことです。荒川扇状地では,時代と河道を特定するのが難しく確定的には言えないことが多いです。

地図の黄色ゾーンが自然堤防(できるのに百年単位?)なので,そこが旧い河道(跡)です。地図を拡大して注意深く視てください。


参考文献

利根川東遷を俯瞰するなら,国土交通省,藤原悌子,松浦茂樹の次の5つが良い

国土交通省荒川上流河川事務所『荒川と旧利根川流域「今に至る流路の記憶」』
http://w-forum.jp/2022.09.16ara-Lecture.pdf

藤原悌子『越谷市立図書館主催「越谷市内とその周辺の河川の歴史689」』
http://koshigaya-kkk.sakura.ne.jp/689.pdf

藤原悌子『水のフォルム「荒川物語―自然の荒川から都市維持装置としての荒川へ」』
http://w-forum.jp/hyakunen%20no%20mori%20kougiroku.pdf

松浦茂樹『利根川東遷』
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010651026.pdf

松浦茂樹『関宿から利根川東遷を考える』
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010891955.pdf

(以上,2023-02追記)


河川の旧い流路を知りたいときは次のWebサイトが最適です。

『治水地形分類図 - 国土地理院』
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/lcmfcH25H26view.html

『歴史的農業環境閲覧システム』
https://habs.rad.naro.go.jp/

『今昔マップon the web』
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html

『川の歴史 - 江戸川河川事務所 - 国土交通省』
https://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00222.html

◆◆冒頭のWikipediaの他に武蔵国と下総国との国境の決定的な証拠を示すWebサイト◆◆

江戸時代前後の隅田川の流路を詳細な地図で示しています
『隅田川少考』
https://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/sumida/index.html

鎌倉時代の地図には寺島(葛飾郡)と牛島(豊島郡)の間に利根川があります
『歴史探訪_21押上界隈の歴史あれこれ_oshinaka』
https://www.oshinaka.com/1245.html
『リンク切れならこのWebサイトよりD/L』(2022-05)
https://yamakatsusan.web.fc2.com/keiido_tonegawa/ukejifurukawa.html

豊島郡と葛飾郡との堺を実際に歩いて写真に収めています
『武蔵国と下総国の国境は(今の)隅田川ではないことを確かめるツアー』
https://edo.amebaownd.com/posts/7341328

これも江戸時代前後の利根川・隅田川の流路を詳細な地図で示しています
『越谷市立図書館主催「越谷市内とその周辺の河川の歴史」』
http://koshigaya-kkk.sakura.ne.jp/689.pdf

横幅6000ピクセルの大型地図です。武蔵国のすべての郡,村落,河川が載っています
『武蔵国全図古地図 - Wikimedia Commons (8,717KB = 8.51MB)』 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1856_Japanese_Edo_Period_Woodblock_Map_of_Musashi_Kuni_(Tokyo_or_Edo_Province)_-_Geographicus_-_MusashiKuni-japanese-1856.jpg

◆◆「下総之国図」(船橋市立船橋西図書館蔵)について◆◆

この図は今の隅田川の東岸側が下総国葛飾郡に属していたと主張する人たちがその証拠とするものである。次のHPからD/Lしてみてほしい。

『「下総之国図」(船橋市立船橋西図書館蔵)』 http://www42.tok2.com/home/katsunan/page005.html

上のHPのリンクが切れていたなら次の図を直接ダウンロードしてください。

このWebサイトの『「下総之国図」(船橋市立船橋西図書館蔵)』 https://yamakatsusan.web.fc2.com/keiido_tonegawa/shimousanokuninozu.jpg

村落名称はまったく読み取れないし,川筋にも間違いが多い。図7【武蔵国全図古地図(東側部分)】の方が信頼できる。

以上

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